Violin弾きのお美っちゃん~42

Posted by MichikoNakamura Tue, 14 Oct 2003 01:21:35 GMT

傘に歌えば……


 私は慌てていないと、のろのろ歩く。ホノルルの空に浮かぶのんき雲のように遅い。

 最近ある新聞で、早足で歩ける人ほど健康だという記事を見たが、それだけが健康要因ではないと思うので、その説はさほど深刻に受け止めなかった。むしろ私は、のろのろ歩きでの「健康・長生き説」を世に送り出そうと考えている。

 歩くのが遅すぎて「なかなか前に進まないなあ」と思うことがある。片足が地面に着地しても、もう一方の足がなかなか地面から離れない。慌てるとつんのめって小走りになるが、そうでなければゆっくりテンポは変わらない。

 ホノルル中心部のショッピング街を歩くと、ハワイの人の歩調は私のペースとぴったり合う。のろい。実にのろい。私は買い物があってもなくても、時間があると月に2、3度は町に出て、のろのろと歩きながら人々の行動を見て、なんとなく楽しんでいる。

 のろのろ歩いていると面白い考えも浮かんでくる。だが、多くの場合はあまり役に立ちそうもない考えなので人には言わない。歌も歌う。この頃では昔見たフランス映画、「シェルブールの雨傘」を歌いながら歩いている。

 「シェルブールの雨傘」はロマンティックな映画だった。灰色の雨の中、レインコートを着たカトリーヌ・ドヌーブが恋人を追って、とても素敵に走ったように記憶している。題が「シェルブールの雨傘」だから傘をさしていたのかもしれないが、はっきりと覚えていない。

 「カトリーヌ・ドヌーブになったつもり」は全くないのだが、よく晴れた日、私は「シェルブールの雨傘」を歌いながら傘をさしてホノルルの町をのろのろ歩いている。

 帽子をかぶり、傘をさし、フード付き長袖の上着を着ている。それに20年前に眼鏡として使っていたフレームを、度付きの色付きレンズに変えた流行はずれのサングラスをかけている。強い太陽光線と紫外線を避けようと思いつく装いをしたらこうなった。

 以前、黒い大きな傘をさしていたが突風で折れてしまった。その後いろいろと試してみたが、風に強く、重くなく、日陰になるものがなかなか手に入らないので、今のところ普通の雨傘や日傘をさしている。だが、私は満足していない。

 ハワイで傘にこだわる人にはめったにお目にかからないのだが、歯医者帰りに寄り道した公園で、素晴しい傘をさしているアニーという女性に出会ったーーー。

 かつて治療した左下の奥歯がまたうずきだし、みるみるうちに左の頬が腫れ上がったので歯医者さんへ行った。応急治療をしてもらったが、この次には奥歯を抜くと言われた。私は早くも「べりべりっ」と歯を抜く音を想像しながら歯医者さんを出た。

 ふと向かい側の公園に目をやると、植木草花のセールが開かれていた。緑の中で人々がのどかに動いているのが見えた。左の頬だけが腫れ、風変わりな出で立ちの私。知り合いには会いたくなかったが、人々の動きに誘われてのろのろと公園に入って行った。

 ずらりと並ぶ植物の鉢の隣には2つか3つテントが建てられ、そこでは手作りの工芸品が売られていた。私は一通りぐるっと見て回ってから、ランの花や鮮やかな熱帯魚が描かれたタイルが並ぶテントの前で足を止めた。

 すると横から、癖毛の長い髪を束ねた女の人が、「ひとつひとつ私が描いたのよ」と話しかけてきた。その白い顔は紫の大きな傘に縁どられていた。

 私は少し驚いた表情をしたかもしれない。だが私の興味はタイルよりも、その女性のさす大きな傘と彼女自身に向けられていたのだった。それでも礼儀からして、まずは彼女の作品について語ることにした。「あなたはタイルに花と魚しか描かないの?」。

 しばらく説明を聞いてから、私たちはおしゃべりを続けた。

 「私の名前はアニー。18年前にニューヨークから来たのよ」

 「あなたは特別の傘をさしているからハワイに長く住んでいても日焼けしないのね」

 その傘はアニーの試作品で、内側は紫外線防止の布、外側はハワイらしいお花のプリント地で、2枚重ねに仕立てられていた。商品になったら是非欲しいと思った。

 アニーは答えた。

 「ううん、そうじゃないの。ハワイに来た当初、若かったから日焼け止めクリームを塗らないで毎日ビーチへ遊びに行ったのよ。そうしたら皮膚がんになったの。手術の跡が見えるでしょう?」

 傷は白い木綿糸のように細く小さかった。私は、結局何も買わずにおしゃべりだけをして、メールアドレスを交換して別れたーーー。

 公園を出てのろのろと歩きながら、「アニーとあの傘にいつかまた会えるかしら」と想像しながら、「シェルブールの雨傘」を歌った。

 すると、脳裏に浮かんだ「シェルブールの雨傘」は、哀しい灰色ではなくハワイの黄色い光の矢を浴びていた。それは、紫の傘に丸く縁どられたアニーの顔のように明るかった。

(毎日新聞USA連載)


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