Violin弾きのお美っちゃん~45

Posted by: MichikoNakamura Tue, 02 Dec 2003 05:00:05 GMT

島に色がある……



 世界地図で見るハワイ諸島は、消しゴムのかすが転がっているように見える。

 人が行くことの出来ない小さな岩礁も数に入れると、約130の島が存在する。手の平でサッと払えばなくなりそうなほど頼りなく聞えるが、島々は長い火山脈の帯で固く繋がれている。

 その中で、主要な島は8つ。ここホノルルのあるオアフ島から見て、東の島に行くにつれて若くなり、西の島ほど年寄りになる。

 8つの島には「島の色」がある。カウアイ島は紫、オアフ島は黄色、マウイ島はピンク、ハワイ島は赤といったように、7島はハワイの花々や虹を思わせるような明るい色を持っている。

 また、7島はニックネームを持っており、それぞれの島の特色を表わしている。オアフ島の西、緑豊かな高齢のカウアイ島は「庭園の島」、東のモロカイ島は「友情の島」、更に南東、1番大きくて若いハワイ島は「蘭の島」などと呼ばれている。

 だが残念なことに、マウイ島の南西にあるカホオラヴェ島だけは、親しまれるべきニックネームがない。そして、まるで島の持つ歴史を表わすかのように、島の色も灰色とされている。

 主要8島は、他に、カウアイ島の西隣にニイハウ島、マウイ島の西隣にラナイ島という小さな島がある。このラナイ島に私が親しみを覚えたのは、友人のナンシー・ヤングを通してのことだった。それまでは聞いたことがあっても、その島がどこに横たわっているのか地図で確かめたことがなかった。

 ナンシーは3年前にホノルルで定年退職した後、ラナイ島に移り住み、そこで教育などに関わる活動をして、今年の8月、ホノルルに戻ってきた。自宅はホノルルにあるので行ったり来たりの生活だった。ラナイ島で3年間、ゆったりとした時間を過ごした彼女は、「ラナイ島での3年間は私の人生を変えた」と言った。

 人口約3000人のラナイ島には病院はひとつ、映画館もひとつ。素敵なホテルがあって保養には最高の島だという。道には信号がなく、ナンシーはどこへ行くにも自転車で出かけ、出会った土地の人々とはすぐに友達になり、ゴルフやテニスも楽しんだ。

 ハワイでは隣島に行くのに小さなペットを連れて一緒に飛行機に乗ることが出来る。ただし、ペットはペット用のカバンに入り、飼い主の座席の下でおとなしくしていることになっている。そうしてナンシーの愛犬ティッキーとアイコも、オアフ島とラナイ島間を飛行機で往復した。

 のどかな田舎の風景が想像されるラナイ島の南東に、灰色のカホオラヴェ島がある。主要8島の中で1番小さい。島はハワイアンの神、カナロアから名付けられ、実はハワイアンにとっては「聖なる島」であった。

 伝説によると、その昔、カホオラヴェ島では2つの女神の心の不一致により対立が起こったという。そして島はまるで呪われたかのように、荒れ果てた土地として知られるようになっていった。

 1800年代はじめ、カアフマヌ女王が罪人をカホオラヴェ島に島流しをしていた。1800年代中期には、島にヤギとヒツジがはびこって、ハワイ原産の植物を食い荒らしてしまった。

 さらに第2次世界大戦が始まると、米海軍がカホオラヴェ島を砲撃の練習場として押収した。それは1990年まで50年間も続けられた。呪いは1度や2度ではなかったのだ。

 その後1994年にハワイ州に引き渡され、10年計画で島の大掃除がされていた。そして10年後の今年11月11日、ハワイアンにとって待ちに待った日を迎えたのだった。11月12日に式典が行なわれ、カホオラヴェ島は正式に米海軍からハワイ州政府に返還されたのである。

 それでも不発弾など「兵器の残骸」はまだまだ残っているので撤去作業は続けられ、04年3月12日までに撤退することになっている。これからはもう「呪いの手」が入ることは出来ない。この島に限り、商業を目的として用いられることもない。

 これからカホオラヴェ島は、ハワイアンの手によってハワイ原産の植物が植えられ、昔ながらの風景を取り戻して、先住民ハワイアンの生態系やその文化を復興していくことだろう。

 今から10年後、島にはニックネームが付けられているだろうか。島の色はその時でもまだ灰色なのだろうか、と気になる。

 ハワイアンは、ハワイの明るく鮮やかな自然の色に敬意を表して、衣類には地味な「大地の色」を身にまとうと聞いたことがある。そうすることで調和するのだと。

 するとやはり、ほかの7つの島々がそうであるように、島の色は花々のようであり、蒼い海や青い空のようであり、真っ白な雲のようであり、大空にかかる虹のようでなければならない、と私は思う。

(毎日新聞USA連載)


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Violin弾きのお美っちゃん~44

Posted by: MichikoNakamura Sat, 15 Nov 2003 04:38:32 GMT

ハワイの師走は……


 ワイキキビーチに面したカラカウア通りには、陽気な華やぎがある。

 海岸のすぐ東側には、10万年前に噴火したといわれるダイヤモンドヘッドが厳つい頭を突き出している。ダイヤモンドヘッドを東に越えると閑静な住宅地カハラ地区へ、西はショッピング街、官庁街方面へと向かう。

 そんなホノルルの市内をバスはひっきりなしに通る。時刻表はあるのだろうが、交通渋滞に左右されるバスは不規則にバス停に着く。ある時はなかなか来ないが、ある時は同じ番号のバスが2台続いて来る。

 そんな「ハワイ時間」を頭に置いてバスでどこかへ出かける際には、時間に余裕を持ってバス停に着くのがよい。自転車と一緒に乗車したければ、車両前方の自転車用荷台に乗せてくれる。

 今年の9月には1カ月以上もそのバスが止まった。全面ストに突入したのだが、数日間はバスが走っていないことに私は気付かなかった。10月になってストは解除されて、1ドル50セントを握り締めて乗ったバスの乗車券は2ドルになっていた。

 私はカラカウア通りに面したアパートの1室で、裏窓を開いて、バスやトラック、乗用車やバイクの走る音を聞きながらコンピューターに向かっている。

 ワイキキの海岸から車で約10分。1929年に作られたアラワイ運河の橋を渡ると、ここで道は大きくカーブしている。スピードを緩めずに突っ切ろうとする無謀運転の車が、しばしば追突事故を起こしている。

 途絶えることなく車は走り過ぎ、時折、「ガシャーン」と衝突する音がする。「ああ、またか」と思う。警察の到着は遅すぎることがない。そんな大通りの事件は裏窓からそれとなく流れ込んで来るが、もう馴れっこになってしまったから、騒ぎがあってもいちいち表に飛び出さない。

 裏窓は、11月になってハワイが「冬」に変わったことも告げてくる。

 「ザーッ」と雨の音がする。窓を見上げると、千切れ雲が重なり合いながら流れている。窓ガラスを蹴るしぶき雨がコンピューターにかからないように、私は急いで窓を閉めようとした。が、その間、数十秒もしないのに通り雨は去ってしまった。

 それからゆっくりと青空が雲間を掻き分けるようにして広がっていった。さっきの雨雲はどこかへ行ってしまったが、いつまた別の千切れ雲がきまぐれな悪戯をするかわからない。

 気紛れなお天気に騙されないで、私は小さな買い物を兼ねて散歩に出る。

 カラカウア通りに出て横断歩道で信号を待つ。勢いをつけた車はびゅんびゅんとカーブの向こう側から姿を現わしてくる。数人の旅行者は信号を無視して、中央分離帯までひょこひょこと渡って行った。

 時間通りにバスが来ないなどというのが「ハワイ時間」と書いたが、「アロハ精神」というのもある。車の割り込みを許すのも、横断歩道のない道を横切ろうとする歩行者に「先に渡りなさい」と運転手が手を振って合図することも、「アロハ精神」の現われかもしれない。

 「アロハ」は、「こんにちは/さようなら」という挨拶、「いらっしゃい」と人を歓迎する、それに「愛しています」という情愛も表現する、奥行きの深いハワイ語である。

 「マハロ」は「ありがとう」の感謝を意味する。ハワイでは、英語での電子メールや手紙のやりとりの中で、「Aloha!」と「Mahalo!」は自然に使われている。たいしてハワイ語を知らない私でも、この2つは違和感なしに文章の始めか終わりに入れることがある。

 そんなアロハ精神溢れるハワイだからといって、大通りでも「車が止まってくれるだろう」などとは思わない方がいい。

 さて、散歩中。私はカラカウア通りの横断歩道を注意深く渡る。すると、少し先に赤いハイビスカスが見えてくる。この種のハイビスカスは、朝昼晩、1年中花を咲かせている。ハイビスカスにも「アロハ!」と挨拶してから数分歩くと、アラモアナのモールに着く。

 ワイキキ方面から来るバスはセンターの海側に停車し、ワイキキ方面へ行くバスは山手側から出発する。特定の店の前で誰かと待ち合わせをする際に、「その店は海側にあります/山手側にあります」と説明するのはハワイらしい。地元の人が、海側を「マカイ」、山手側を「マウカ」とハワイ語を使うのもしばしば耳にする。

 地元の買い物客は、セールで買い込んだ品々が入った紙袋を抱えて、駐車場に停めた自分の車に向かって歩いて行き、旅行者は有名店に吸い込まれるように入って行く。

 「ちょっと見るだけ」と私も旅行者の動きに乗って店に入る。店員さんは旅行者にかかりっきり。「高級ブランド店の人はローカルの人には目もくれないのよ」と地元の人が言うのは遠からず当たっている。私たち「地元族」は買う予定もなく見るだけだから、まあそれでもよい。

 11月のショッピンセンターにはクリスマス商品が並び始めた。街はいつもと変わらないほどの賑わいを見せてはいるが、どこか見えないところで感謝祭とクリスマスの準備をしているらしい落ち着きと静けさがあった。

 そして、11月の第4木曜日の感謝祭が過ぎると、その週末からホノルルの街はクリスマスの色彩が濃くなっていき、人々は気ぜわしくなる。ホノルルの日暮れも、6時半から6時へと、じわじわ縮んでいる。

 冬のワイキキの海は波が小さくなり、本格派のサーファーたちは波が高くなる北部海岸へ移動して、もっと激しい波乗りに挑むと聞く。

 そう、師走になっても「ハワイの夏」は、いつまでもいつまでも、続いていくのである。アロハ!

(毎日新聞USA連載)


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Violin弾きのお美っちゃん~43

Posted by: MichikoNakamura Tue, 28 Oct 2003 04:33:11 GMT

箱の中味は……


 左下の奥歯を抜いた。痛み止めと抗生物質の薬は大いに助けになったが、数日間は、海の底に沈んでしまったような気持ちがした。

 薬で痛みが和らぐと、「麻薬とはこうゆうものかしら」と、神経の芯が鈍くなっている別の自分を感じた。もちろん薬は処方された痛み止めであって麻薬ではないのだが、「本当の私はまだ目を覚ましていない」ことを意識した。

 「ああ、こんなに辛いものならいっそのこと…」と、まだ若くて元気なうちに、抜かなくてもいい奥歯も抜いてしまいたくなった。

 ……昔、今よりもずっと若い頃……眠っている時に見る「怖い夢」が2つあった。ひとつめは歯が抜ける夢。ふたつめは、ヴァイオリン演奏試験や演奏会の前に見る夢だった。弾こうとすると突然ヴァイオリンがばらばらに空中分解した。

 嬉しい夢を見ている時は、寝入っているのに微笑んでいるのがわかる。だが、夢は虹の橋のようにスーッと消えてしまう。残念だ。怖い夢は見ている時間が長く感じる上、何度も見る。目を覚ますと眉間にしわが寄っていることもあるので、なおさら恐ろしい。

 昔話の浦島太郎が竜宮城で暮らしたのはどのくらいの期間だったのかわからないが、別世界の魅惑に取りつかれた太郎は、長い夢から目覚めなかったのだろう。「助けた亀」に連れられて行ったのは、ハワイだったと言う人がいたが、私はそう思わない。

 太郎は故郷の浜に着くと、乙姫様からもらった玉手箱を開けてしまった。そして容赦のない結末になっている。そこに戒めがあるにしても物語の最後のページが「白髪頭と歯抜けのおじいさん」では落胆させられる。太郎さんがあまりに気の毒過ぎる。

 私も10数年前、カンザスに住む友人のジーナに小箱をもらった。それは手の平に握れるくらいの大きさで、何も入っていないように軽かった。箱はかわいい包装紙で包まれ、リボンもかけられていた。

 ジーナは、「ミチコ、これは特別のプレゼントよ。でも決して開けてはダメよ」と言って私の手の平に乗せた。私は「開けない」と自信のない約束をした。

 そして私は約束通り一度もリボンを解いていない。何度かリボンに手をかけたがやめた。小箱を開けないのは浦島物語の戒めを守っているからではなく、私が誠実だからでもなく、小箱を信仰しているからでもない。

 「あなたが悲しい時に私が祈っていると思ってね」と言ったジーナの言葉を、今でも心のどこかで大切にしているからだと思う。もしかして、空っぽかもしれないその箱のことをジーナが忘れていたとしても、あるいは、私がその箱を失えたとしても、その値打ちは変わらないだろう。

 私はハワイで、台湾や香港出身の中国系の人たちとも知り合い、友だちになった。まだ行ったことのない彼らのお国話を聞いていると、特に40代、50代の人は台湾出身のある女性歌手をとても大切に思っていることを知った。まさに心の中で命になっているようである。

 テレサ・テンという歌手は日本でも活躍し、その人気は大変なものだった。が、不幸なことに10年程前、タイのホテルで病気で亡くなった。まだ40歳ちょっとの若さだった。

 台湾出身の知り合いのリュウさんは、「僕は台湾にいた頃、毎晩ベッドに入って寝入るまでテレサの歌を聴いていたんだよ」と目を輝かせて言った。

 ある日、彼はCDを聴きながらやって来た。「聴いて!」と言うのでヘッドフォンを耳に当てると、日本語で歌うテレサ・テンの甘く澄んだ歌声が流れてきた。「僕は今ではテレサの歌を日本語でも聴いているんだよ」と、リュウさんは幸福感に満ちた表情をした。

 私は以前、気管支のアレルギーみたいな症状でお医者さんに行った時、「テレサ・テンはこれで死にましたよ!」と言われたことがあった。それは冗談好きな友人医師の脅しだと受け止めていたが、テレサ・テンの熱心なファンから話を聞いているうちに、「もしかしてあれは本気だったのかもしれない」と思うようになった。

 深海に沈められていくような苦しさに眉間にしわを寄せたテレサの顔と、多くの中国人や日本人に愛されたテレサの顔が浮かぶ。そしていつの間にか私は、ハワイで出会った台湾や香港の人たちとも「同じ長屋の住人」になったような親しみを覚えている。

 「アラモアナの海の35メートル下には、日本の古いマグロ船がひっくり返して沈められているんだよ」とヨットのキャプテン、イアンが教えてくれた。亀や蛸や魚たちはこの船を家にして、そこから出たり入ったりして安全に暮らしているそうだ。

 日本の「長屋」は、ホノルルの海の中にもあったのだ!。

 そこで私は、浦島物語を「竜宮城」から「長屋」へ、「乙姫様の玉手箱」から「ジーナの小箱」へと、心の中で書きえておくことにした。

 太郎は誰なのか。それは、誰にも言えない。

(毎日新聞USA連載)


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Violin弾きのお美っちゃん~42

Posted by: MichikoNakamura Tue, 14 Oct 2003 01:21:35 GMT

傘に歌えば……


 私は慌てていないと、のろのろ歩く。ホノルルの空に浮かぶのんき雲のように遅い。

 最近ある新聞で、早足で歩ける人ほど健康だという記事を見たが、それだけが健康要因ではないと思うので、その説はさほど深刻に受け止めなかった。むしろ私は、のろのろ歩きでの「健康・長生き説」を世に送り出そうと考えている。

 歩くのが遅すぎて「なかなか前に進まないなあ」と思うことがある。片足が地面に着地しても、もう一方の足がなかなか地面から離れない。慌てるとつんのめって小走りになるが、そうでなければゆっくりテンポは変わらない。

 ホノルル中心部のショッピング街を歩くと、ハワイの人の歩調は私のペースとぴったり合う。のろい。実にのろい。私は買い物があってもなくても、時間があると月に2、3度は町に出て、のろのろと歩きながら人々の行動を見て、なんとなく楽しんでいる。

 のろのろ歩いていると面白い考えも浮かんでくる。だが、多くの場合はあまり役に立ちそうもない考えなので人には言わない。歌も歌う。この頃では昔見たフランス映画、「シェルブールの雨傘」を歌いながら歩いている。

 「シェルブールの雨傘」はロマンティックな映画だった。灰色の雨の中、レインコートを着たカトリーヌ・ドヌーブが恋人を追って、とても素敵に走ったように記憶している。題が「シェルブールの雨傘」だから傘をさしていたのかもしれないが、はっきりと覚えていない。

 「カトリーヌ・ドヌーブになったつもり」は全くないのだが、よく晴れた日、私は「シェルブールの雨傘」を歌いながら傘をさしてホノルルの町をのろのろ歩いている。

 帽子をかぶり、傘をさし、フード付き長袖の上着を着ている。それに20年前に眼鏡として使っていたフレームを、度付きの色付きレンズに変えた流行はずれのサングラスをかけている。強い太陽光線と紫外線を避けようと思いつく装いをしたらこうなった。

 以前、黒い大きな傘をさしていたが突風で折れてしまった。その後いろいろと試してみたが、風に強く、重くなく、日陰になるものがなかなか手に入らないので、今のところ普通の雨傘や日傘をさしている。だが、私は満足していない。

 ハワイで傘にこだわる人にはめったにお目にかからないのだが、歯医者帰りに寄り道した公園で、素晴しい傘をさしているアニーという女性に出会ったーーー。

 かつて治療した左下の奥歯がまたうずきだし、みるみるうちに左の頬が腫れ上がったので歯医者さんへ行った。応急治療をしてもらったが、この次には奥歯を抜くと言われた。私は早くも「べりべりっ」と歯を抜く音を想像しながら歯医者さんを出た。

 ふと向かい側の公園に目をやると、植木草花のセールが開かれていた。緑の中で人々がのどかに動いているのが見えた。左の頬だけが腫れ、風変わりな出で立ちの私。知り合いには会いたくなかったが、人々の動きに誘われてのろのろと公園に入って行った。

 ずらりと並ぶ植物の鉢の隣には2つか3つテントが建てられ、そこでは手作りの工芸品が売られていた。私は一通りぐるっと見て回ってから、ランの花や鮮やかな熱帯魚が描かれたタイルが並ぶテントの前で足を止めた。

 すると横から、癖毛の長い髪を束ねた女の人が、「ひとつひとつ私が描いたのよ」と話しかけてきた。その白い顔は紫の大きな傘に縁どられていた。

 私は少し驚いた表情をしたかもしれない。だが私の興味はタイルよりも、その女性のさす大きな傘と彼女自身に向けられていたのだった。それでも礼儀からして、まずは彼女の作品について語ることにした。「あなたはタイルに花と魚しか描かないの?」。

 しばらく説明を聞いてから、私たちはおしゃべりを続けた。

 「私の名前はアニー。18年前にニューヨークから来たのよ」

 「あなたは特別の傘をさしているからハワイに長く住んでいても日焼けしないのね」

 その傘はアニーの試作品で、内側は紫外線防止の布、外側はハワイらしいお花のプリント地で、2枚重ねに仕立てられていた。商品になったら是非欲しいと思った。

 アニーは答えた。

 「ううん、そうじゃないの。ハワイに来た当初、若かったから日焼け止めクリームを塗らないで毎日ビーチへ遊びに行ったのよ。そうしたら皮膚がんになったの。手術の跡が見えるでしょう?」

 傷は白い木綿糸のように細く小さかった。私は、結局何も買わずにおしゃべりだけをして、メールアドレスを交換して別れたーーー。

 公園を出てのろのろと歩きながら、「アニーとあの傘にいつかまた会えるかしら」と想像しながら、「シェルブールの雨傘」を歌った。

 すると、脳裏に浮かんだ「シェルブールの雨傘」は、哀しい灰色ではなくハワイの黄色い光の矢を浴びていた。それは、紫の傘に丸く縁どられたアニーの顔のように明るかった。

(毎日新聞USA連載)


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Violin弾きのお美っちゃん~41

Posted by: MichikoNakamura Tue, 30 Sep 2003 00:14:57 GMT

独り一人で……


 ワイキキの水族館に勤める友人のドナと会う約束があったので、水族館へ行った。早めに着いた私に入り口の従業員が、水族館の中を見ながら待つようにとすすめてくれた。

 生きた珊瑚、熱帯の美しい魚たちはウマが合うもの同志、それぞれにひとつの水槽で仲良く暮らしている。弱肉強食の海の底から平和だけを切り取って、私たちに見せてくれている。

 泳ぐ魚たちは水槽の外をさほど意識していない様子だ。たまに、ガラスの向こう側の人間に気付いたそぶりを見せるが、警戒心はなく、「ああ、いつものことだわ。あたし見られているのね」といった具合に、魚はちょっと気取って水の中で一回転する。

 ふと、私は誰かと目が会ったような気がした。「私は見られている!」と思った。

 目の前の水槽には岩しかなかった。が、顔を近づけてよく見ると、岩と似た色をした握り拳大くらいの「人物」がいるではないか!

 彼は独り岩にもたれかかり、か細い足で立ち、痩せた手には杖を持っている。そんなものが私の目の中に飛び込んできた。

 頭でっかちで頑固そうな目つきをしたその生き物は、水槽のわずかな水の動きにあわせてゆらめいている。そして、水槽の中からこちらを観察していた。それは、フロッグフィッシュだった。

 フロッグフィッシュは、じーっと動かないでゆらゆらと立っているが、豆粒のような小さな目だけは、捜査中の刑事か新聞記者のように、彼のせわしない心の内を現わすかのように鋭くうごめいていた。

 解説によると、フロッグフィッシュは、目の前を通り過ぎる生き物を何でも食べてしまうそうだ。幸い、水槽のこちら側にいたからよかったものの、「よく太っていて美味しそうだ」と、私は獲物の標的にされていたのかもしれない。

 彼は何でも食べてしまうのでウマの合う友達がいない。水槽の中にあるものは岩だけ。独り法師(ぼっち)で寂しそうだが、本当に寂しいかどうかはフロッグフィッシュ本人に聞いてみないとわからない。寂しいだろうと想像しているのは人間だけかもしれない。

 フロッグフィッシュとは正反対に、私の愛犬ドルチェは寂しいとそれを全身で現わす。この世で一番恐いものは独り法師になることのようだ。だから一度も独りで留守番をしたことがない。一緒に行けるところはどこにでも連れて行く。

 私が数日間旅行に出る時はかかりつけの動物病院に泊まるのだが、迎えに行くと手足をばたつかせて、「どこへ行ってたんや?遅かったやないか」と犬語で怒っている。それはなぜか京都弁のおじさん言葉で聞こえてくる。寂しさも本気になると凄みが出る。

 オクラホマ州に、ニックネームが「ゲギー」という友人がいた。今春、103歳で亡くなる2年くらい前までは一人だけで住んでいた。だが、彼女は孤独な老人ではなかった。ゲギーは美しく知的でユーモアのセンスがあり、人間としての花があった。「私がこの世ですることは終えたから天国に行きます」と最期に言ったそうだ。

 そう言えば、そろそろアルフレッド・ウィンロスが来る頃だ。そんな予感がしていると電話がかかってきた。友人のアルフレッドは、年に一度くらい風のようにハワイにやって来る。彼はたぶん75才にはなっているが心は青年だ。生涯独身を通している。

 アルフレッドと初めて出会ったのは、ワイアラエにある古い楽器店だった。私は楽譜を探していた。すぐそばでヴァイオリンを見ていたのがアルフレッドだった。私たちはどちらともなく音楽の話をしはじめた。

 それからお店での用事が済むと、「主人が車で待っているからご一緒しましょう」と一緒に出て、数日後、家にお茶に招待した。彼は自分のヴァイオリンを持ってきて私たちはデュエットを弾いた。もう15年程前のことだ。

 アルフレッドからの電話は、いつも前触れもなくかかってくる。そして、1年か1年半ぶりの再会する。私は大急ぎでおにぎりかサンドイッチを買ってきて昼食を共にし、おしゃべりをする。

 「この1年どこにいたの?」と聞くと、名古屋、横浜、神戸だったり、シアトルだったり、香港やシンガポール、遠くはヨーロッパにいたと言う。行く先々に友達がいるようだ。また新しい友達を作る。時には趣味であるヴァイオリンを携えて旅に出る。

 アルフレッドは元気におしゃべりをし、サンドイッチを半分だけ食べてから、私のヴァイオリンを3分間だけ弾かして欲しいと言って手を洗った。「僕は一人でまだヴァイオリンの練習を続けているんだよ。まだまだ上達しているんだ」と、夢心地の表情でヴァイオリンを弾いた。

 それから、来た時と同じように元気な声で「さようなら」を言って、またどこかの国へ行ってしまった。どこで何をするのか私は知らない。

 好きなことをして、寂しくなったら友に会いに行き、そして、ヴァイオリンを友に、どこかで幸せに生きていることだけは分かっている。

(毎日新聞USA連載)


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Violin弾きのお美っちゃん~40

Posted by: MichikoNakamura Wed, 17 Sep 2003 00:05:21 GMT

いつの日か紅葉を……


 オアフ島の気候は大きく分けて10月から3月までが雨期、4月から9月までが乾燥期といわれる。

 だが実際は10月も夏で、11月から先は秋のような冬のような微妙な気配を感じさせながら、秋にも冬にもならずに夏は続いていく。9月という月は、気象上の理由か、私が秋の気配を期待しているせいなのかわからないが、1年中で一番暑く感じる。

 ハワイに住んでいて懐かしく思うものに、紅葉がある。ハワイの樹木で色づくものは少ない。この暖かく穏やかな気候を喜ぶ一方で、季節が秋に向かい始めようとする時、かつて経験した四季の移りゆく日本の風情を、もう一度思い起こそうとする。

 あやふやなものでありながら、一掴みされた印象を心の中で味わおうとし、更にはそれをもっと美しくして見てみたいという憧れにもなる。だが、そんな淡い想いは、日々の現実にかき消される。

 顔は刺すような強い日差しに晒されて日焼けをし、足の甲にはサンダルの跡が染み着いた。そして長い夏は疲れとなって溜まり、昼下がりには眠気を誘われる。私は夏休みをしなかったが、この快いまどろみこそが私にとっての休暇。

 ハワイの友人知人らはそれぞれに夏休み休暇を取り、しばしこの島を離れて行ってはまた戻って来るのだった。

 「どうだった、旅行?」

 「うん、とても楽しかった。でも帰ってくるとほっとする」という。

 9月になってもまだ夏休みをしている人もいる。仕事をして、くつろげるハワイを休暇地に選ぶ。彼らは張り詰めたタガを緩めるためにハワイへやって来る。

 タガは外れてはいけないが、緩めるのも容易なことではない。休暇と商用を兼ねての旅行者は仕事のことが頭から離れないだろう。仕事をひと区切りつけて鋭気を養おうと、思い切って休暇を取ったという人も、「あの件は大丈夫かなあ」「あの顧客はどうなったかな」と心をよぎるものだ。仕事の心配は尽きることがない。

 そして、ハワイの雰囲気に浸ろうとカジュアルな服装になりゴムゾーリを履いてみるのだが、心はまだ仕事の余韻に引っぱられている。何とももどかしい。

 ある知り合いの日本人男性は、ついに、「今日から1週間仕事のこと、わーすれた!」と大きな声で宣言した。すると彼の顔つきは変わり、活力をみなぎらせ、かつ紳士的に、ハワイに身をまかせたのだった。

 そして帰国当日、飛行場での別れ際に、「非常に密度の濃いハワイでした」と言う表情には新たなエネルギーを秘めているように見えた。帰国後待ち受けている仕事の山が待ち遠しいようでもあった。

 ハワイでの休暇は、それぞれの人の体内で、生き生きとした燃料となっていくのだろう。それは過去に向かっての懐かしむものとしてだけでなく、ハワイを去った後も、現在と未来に向けて、心の中で呼吸し続けるだろう。そうあって欲しいと思う。

 8月も終わりに近い日曜日の午後、私は小さな旅をした。友人の誕生日祝いを砂糖きび列車ですることになり、ホノルル中心部から車で西へ40分程、エヴァというところへ行った。

 町中の喧騒から離れたエヴァは、同じ島でありながら、もっと遠いところへ来たように思えた。私は緑の街から、乾いた黄色い土地に来ていた。

 エヴァにはかつて砂糖きび列車として使われていた歴史ある線路が今も残されている。駅には当時使われていた列車が西日に照らされていた。近くには、窓ガラスも壁もぼろぼろに崩れ落ちた大きな砂糖きび工場跡があった。

 私たちを乗せたトロッコのような窓のない列車は、岩地一面に生えた枯れ草の真ん中をまっすぐ走って行った。100年前、列車の走る両脇には、今は名も残されていない大勢の人々が体を枯らして働いていたのだ。そしてハワイを育てた。

 懐かしむものは過去にあるとしても、日々に接する人々や先人たちへの私たちからの感謝は、過去も現在も未来も変わらない。

 そう思い当たると、人生の中で出会う「心のパートナー」と呼べる人々から、私たちは実に多くのものを与えられ、そして育てられていることに気付かされる。少なくとも私自身はそうだった。

 そして、憧れは未来にあるように感じる。だから、探している紅葉は、いつか見たいと思い続けるものなのだろう。

(毎日新聞USA連載)


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Violin弾きのお美っちゃん~39

Posted by: MichikoNakamura Sun, 31 Aug 2003 23:58:17 GMT

似て非なる……


 ハワイでは靴を脱いで家の中に入る。この習慣は東洋系だけでなく、ローカルの大方の家庭でも同じでハワイ全般に定着している

 布団もハワイにだけ普及しているのかと思っていたが、10数年前にカンザスの友人の家に泊まった時、「フトンを買っておいたのよ」と聞いて驚いたことを思い出す。「Futon」はアメリカ本土の、日本人をめったに見かけることのない小さな町で、英語になっていた。

 ハワイという土地柄は、他の州から来たアメリカ人でも、最初は戸惑うことがあるらしい。

 彼らは自分なりのハワイへの適応法を考え、精力的に行動する。そしていろいろな戸惑いを真剣に話して、最後に、「これからの人生をハワイで過ごすことに決めたんだ。ハワイが好きなんだ!」と締めくくるのだが、戸惑いなどはものともしない熱の入れ様だ。

 アメリカ本土からひとっ飛びしてハワイへ来たアメリカ人の中には、日本に愛着を覚える人も多い。いつの日にかもうひとっ飛びして、日本ヘも行ってみたいと考えている。夢ではない。

 「日本的なもの」と一口に言ってもいろいろあるが、日本に住んでいて日本的なものと、ハワイでの日本的なものではちょっと違う。その「ちょっと違う」が、全然違っていたりするのもおもしろい。逆に、ハワイの方が日本的であったりすることもある。

 知人のキャリーと私は、家の「間取り」の話をしていた。畳が6枚だから「6畳間」だと説明した。キャリーはテレビの時代劇をよく見ているから、畳 や障子がどんな形をしているのかもよく知っている。自分のことを「アメリカ人浪人」と自称しているほどだ。そのキャリーがある日、こう言った。

 「私は畳が好きです。大晦日には花火を見たいので祖母の家に行きます。そして、ガレージに畳を12枚敷いてテーブルを広げて、みんなで料理を食べながら花火を見ます」

 「そうなの!。12枚もガレージに畳を敷くのは大変ねえ。重いでしょう? 畳屋さんはハワイにあるの? 日本から取り寄せたの? それで普段はどうしてるの、その畳?」

 「はい、畳はハワイで買いました。どこでも売っています。畳は重くないです。いつもはたたんで物入れに片付けています」

 「あらっ、ハワイには折りたたみの畳があるの?」

 「はい、あります。畳は全部、折りたたみ式です」

 あっ、そうか! 謎が解けた。畳ではなくて「ござ」のことだった。

 彼の方も瞳を大きく開いて驚いた。そして、「私はござの本当の意味を知りませんでした」と言って、中指で額をこんこんこんと3つ叩いて目を細めたのだった。

 私も真似て自分のおでこを叩いてみせた。考えてみれば、畳を修理するところでも見ない限り、テレビの時代劇だけでは、畳の厚みや重さがわからないのは無理もないことだった。

 やはり知り合いのアリソンに聞いてみた。「畳を見たことがありますか?」「はい、畳を作っているのをテレビで見たことがあります」と答えた。アリソンは日本の言葉と文化を習い始めて1年半になる。日本へはまだ行ったことがない。

 そのアリソンに、「狐と狸がどうしてうどんや蕎麦になっているんですか?」と尋ねられた。これは難問だった。油揚げは狐の好物らしいことなど少しだけ説明したが、狸の説はいろいろあるらしいので、煙に巻いておいた。

 油揚げは豆腐同様にハワイでもよく食べられている。いなり寿司も売られているが、ハワイのいなり寿司は御飯が油揚げからはみ出すくらいぎゅうぎゅうに詰め込まれている。

 「油揚げに味がよく染みていて、御飯は少なめのおいなりさんが好きよ」と私。

 「ハワイの人はたくさん食べたいから御飯がいっぱい詰まっているのが好きなのよ」とアリソン。

 相対的にハワイの人は食べる量が多い。暑いので清涼飲料水も多量に飲む。欲しいものが必ずしも身体によいとは限らない、ということを忘れている訳 ではないが、「わかっているけど、つい」といった感じで清涼飲料水に手が出る。もちろん、健康によいとされる日本のものも飲んでいる。

 「煎茶は飲み過ぎても身体に良い」と夫は言う。だから、ハワイで飲む煎茶は、お茶の香りや味を楽しむというよりは、体内の掃除のつもりで私は飲んでいる。

 ポイントは2つ。やや渋めに出すことと、量を多く作ること。従って小さな湯呑み茶碗にではなく、マグカップに入れる。飲み方は日本的ではないが、日本人である私たちが、ハワイの生活で欠かすことの出来ない数少ない「日本的」なものだ。

 「日本からのお土産に何がいい」と尋ねられて、「ではお言葉に甘えて、お煎茶を少しばかり」と答えるのは、さて、日本的なのかハワイ的なのか……。

(毎日新聞USA連載)


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Violin弾きのお美っちゃん~38

Posted by: MichikoNakamura Sat, 16 Aug 2003 23:51:17 GMT

プカと穴の違いは……


 ホノルルの上空に穴があいて、そこに鉄の重しがぴったりとはまり、風が止ることがある。  無論、空に穴があくはずもなく、そこに鉄の蓋がされることはないのだが、そんな感じがする天候が続いている間、人々は「蒸し暑いですねえ」「ほんとうに」と挨拶を交わす。

 「ぽかっ」とあいた穴に封じ込められた湿気の塊は、しかし、そう長く続かないので、ただひたすらに風が吹くのを待つ。すると、風は必ず戻ってくる。数日後、山側からワイキキの海岸に向けて風が流れ出す。

 「蒸し暑いですねえ」のお決まり文句から解放され、天空の穴に詰まっていた湿気の塊が消えて、そこが元の青空で埋め尽くされる。人々はほっと一息つく。

 「穴」のことをハワイ語では「プカ」という。道のデコボコのへこみも、耳の穴も、ボタンの穴も、みんなプカ。何となくかわいい名前なので生き物みたいだ。道で「あそこにプカがある」などといわれると、それは単なる「穴ぼこ」ではなく、もっと親しむべきものがあるように思える。

 40年程前、私がまだ子どもの頃、日本の道路はデコボコしていた。雨が降ると水溜まりが出来、そこを車が通ると泥水を跳ねた。デコボコ道を走るバスは上下に揺れて私はいつも酔った。今では昔のような穴ぼこはなくなったが、都会では歩道の段差や階段が多くて町全体がデコボコしている。

 実は、オアフ島の道も平らではない。ホノルル中心部の道路にもプカはあちこちにある。雨が降ると道路脇には水溜まりが出来、横断歩道で信号待ちをしているとプカの溜まり水を飛ばされる。

 それでも歩道は車椅子を走らせるに足りる幅と適当な傾斜があり、横断歩道から歩道へ、歩道から店へと、ひとりで移動することが出来る。

 郊外の家々は地形に無理強いすることなく建てられている。当然、坂道や階段が多く出来るが、それを心地よい抑揚とさえ感じる。人間や動物が怪我をしなければ大自然が創造したプカに人工の手を入れ過ぎない方がよいと思う。とはいえ、私自身は上ったり下ったりする山登りの類は好きではないのだが。

 愛犬ドルチェと暮らすようになってから特に、「平ら」を心がけるようになった。無防備な姿で寝転がっているドルチェを蹴飛ばしたり踏ん付けたりしないように、摺り足で歩く。段差のあるベッドやフカフカ布団は危険だ。平たく言えば「せんべいぶとん」が理想的である。

 このままでは私の足腰はだんだん弱り、今に重い足は持ち上がらなくなり、ほんの少しのプカにつまずいて転び、骨を折り、寝たきりになるかもしれない。そうなったら車椅子でひとりで出かけられるように、プカのない道を望みたい。

 私は大きな病気をしたことがない。子どもの時にへんとう腺の手術を2回した。7年前には奥歯の歯根の治療をしたが、口が小さいので1時間以上も口をあけているのは辛かった。唇は裂けそうになり、顎ははずれそうになり、呼吸も苦しくなった。手術と名のつくものはそれだけだが、いずれも口というプカだった。

 人様の前で無用に口を大きくあけるのははしたないと思うのだが、あくびは思いっ切りしないことにはまたもうひとつ出てこようとする。これは仕方がない。存分にプカをあけるのが望ましい。

 3カ月程前に喉が痛くなったのでかかりつけのお医者さんへ行った。私はいつものように百年の恋も覚めてしまうほどに頑張って口をあけた。小林医師はライトで喉を照らして覗き込み、続いて、その日来ていた医療研修生にも見るように促した。研修生が目の前に来た。

 するとなぜか私の口は自動的に閉まり、同時に「あっ」という声が聞こえた。医師が目を丸くして「はい、もう一度」とやり直すと、口はまたあいた。今度は研修生がさっきよりも素早く駆け寄ってきた。瞬間、またも口は閉じられた。そして、もう一度口が開くと、「嫌だ!」と口走っていた。彼らは苦笑して諦めた。私も不思議だった。

 その日家に帰ってから考えた。確かに研修生にいじわるをしたのではない。たぶん、今しがた会ったばかりの、一言も言葉を交したことのない人に、いくら診察室とはいえ簡単にプカを見せられなかったのだ。それでも、「いつも親切にしてくれる小林さんに悪いことをした」と、少しだけ反省をして、3日後の再診の時には、研修生にも積極的に赤い喉を見せてあげた。診察室の私たち3人は、それぞれに満足した。

 そう、「穴」と「プカ」は違うのだ。「プカ」はただの穴ぼこではない。「プカ」には、人を愉快な気持ちにさせる妖精が住んでいるに違いないのだ。そして私は、恥ずかしいことを言ったり、したり、書いたりする度に、「プカ」に入りたくなるのである。

 プカの中は居心地が良さそうだ。

(毎日新聞USA連載)


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Violin弾きのお美っちゃん~37

Posted by: MichikoNakamura Fri, 01 Aug 2003 23:41:36 GMT

耳をすませば……


 京都は大学生を大事にする土地柄だった。伝統を大切にする古都だが、古い因習に引き込まれない自由さもあった。京都市立芸術大学を卒業してから数年後に京都で結婚し、ハワイに移り住むまではずっと京都で暮らしていたことは以前にも書いた。

 その当時のこと。夫の母、つまり義母は京都生まれ京都育ちの京都人だった。ある日、「美智子さん、うち、御飯食べの集まりがあるし連れて行ってあげる」と誘われた。義母の所属するグループの食事会について行った。料理屋の座敷には、すでに年配のご婦人たちが座っていた。

 そして私たちは、「どうぞ、どうぞ、こっちにおこしやす」と、席をすすめられる。義母は、「いやあ、そんな、厚かましいわあ。晴れがましい」と、一旦、遠慮する。

 それからもう1度2度とすすめられてから、「いやあ、そうどすか。ほな厚かましゅうに呼ばれよか、美智子さん」と「すっすっすっ」と早足に席に歩み寄る。私はついて行く。すると私たちはいつの間にか「いいお席」に鎮座していた。ということが何度かあった。

 「いやあ、厚かましいわあ。ほな、呼ばれよう」ということばを何度も聞いているうちに、私はだんだんこの台詞が好きになっていった。今でも誰かと京都の話になると、京都人でない私は大好きなこの台詞を入れて「京都人」を演じてみせる。これはアメリカ人には不思議がられるが、京都人でない日本人には受ける。

 いつか義母のように言ってみたいと思うのだが、実際の状況の中では言えるものではない。歴史、習慣、暗黙の約束事、話す人のキャリアや性格も相俟ってこそ、絶妙の面白みと効果が出るのであって、言葉だけを真似ても「絶妙」ではないことはわかっている。

 京都の人が「かまへん、かまへん」と言ったとする。安心してはいけない。あとで、「いやあ、あの人、厚かましい人やわあ」の一言がつくと推測していいだろう。  

 ハワイの人が「いいよ、いいよ。気にしないで」と英語で言ったとする。気の弱さからそう言っていることがあるが、「厚かましい」と負担に感じる時には、「気になる」と言ってくる。それに、何が気になるかを遠慮がちに伝えてくる。風通しがいい。

 日本人の血を持つ日系アメリカ人は、生まれ育った過程で祖父母の話す日本語を耳にしていたり、子どものころ日本語学校に通っていたりということもあって、多かれ少なかれ日本語のフレーズに親しみをもっている。

 若い世代の人たちは、祖父母から聞き覚えた日本語は現代の生活にはそぐわなくなってきていることに気付いている。彼らは日本人が話す砕けすぎた日本語を聞き覚えて、さっそく使ってみようとする。そんな時私は、「その言い方はあなたにはふさわしくないわね」と言うことがある。

 ハワイで生まれ育った日系人女性に、現代の日本で次第に使われなくなっている美しい日本語を話す人がいた。エミーさんと話をしていると「ハワイの宝石箱」に何十年もいた人と話しているような空想が廻った。まだ50歳代で突然亡くなったエミーさんは、私の思い出の中の宝石箱に入って行った。

 夫と私がハワイで「何か新しいこと」を始めようとしていた十数年前の年の夏、義母が来た。ワイキキを歩きながら、「美智子さん、ハワイの人に役立つことをしいや」と義母は言った。私は舗道の熱気に当てられてボーッとする頭で聞いた。そして、「まだ何も見えない時にこそ義母は信じようとしてくれているのだ」と感じた。

 その人だけのもの、その人自身から出た行動や言葉は生き続けている。義理の母もすでに亡くなっているが、「いやあ、厚かましいわあ」の演技をする度にその存在を感じる。「おふくろ、いつもそうゆうとったなあ」と、夫も大笑いする。

 新婚さんだったジェームズ・アラシッチさんとトモコさん夫妻とは、ちょうど1年前に出会った。ジェームズさんはがんを患い車椅子を使っていた。昨年の秋、2人は日本に住むトモコさんの両親を訪ねて行った。それからしばらく連絡がなかったが、最近思いがけず、トモコさんから手紙が届いた。

 ……「ジェームズは昨年のクリスマスの日の夕刻、本当に眠るように永遠の安らかな世界へ逝きました。彼の白い遺灰は、大好きだったハワイ島のコナの友人のフィッシングボートから朝陽のさす時刻、海へ還っていきました。彼は今、美しい海にいます」……朝顔の便箋に、そう綴られていた。

 今はなき人々の言霊は、地に、空に、海に向かって、メロディーのように流れている。そして、地からも、空からも、海からも、忘れ得ぬ人の声は還ってくる。ふとそんな気がした。

(毎日新聞USA連載)


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Violin弾きのお美っちゃん~36

Posted by: MichikoNakamura Sat, 19 Jul 2003 23:31:26 GMT

時計は時計でも……


 ハワイは本格的な夏になってきた。といっても、夏場のホノルルの平均気温はだいたい26度くらいだから「にっぽんのうだる夏」とはずいぶん違う。太陽の日差しは強烈でも、からっとした風が吹き抜ける。

 夏の楽しみはスイカ。今年、日本のテレビニュースで、初めて四角いスイカを見た。スイカは贈答品として同じサイズの箱に納められていた。冷蔵庫に入りやすいようにと改良されたそうだが、切ってお皿に乗せられるすいかはどんな格好なのだろう。

 私は大柄のなみなみ模様がついた、長丸いスイカを好んで食べている。甘い水分がたっぷりあり、おまけに黒い種もいっぱいある。このスイカは一見冷蔵庫に納まりにくいように見えるが、意外にも、丸ごとでも半分に切って入れてもおとなしく納まる。

 ビーチに遊びに行かなくても、涼風の吹く木々の下を歩かなくても、どこか日陰でこの胴長スイカを食べるだけで、元気いっぱい、しあわせになれる。ハワイの日陰の快適さを経験すると、日本の夏は過酷なものだと認識する。

 この春、イラク戦争の影響で一時日本人観光客が減っていたが、夏になってまた増えてきた。新型肺炎の患者も出ていないのでハワイの夏は元気がいい。

 ホノルルの玄関口では、スコットが飛行機の発着時刻の掲示板システムを作っている。勤務時間の大半をコンピューターと向き合っている彼は、休憩時間に空港内を歩いて、日本人観光客と日本語での小さな会話を楽しんでいる。

 ワイキキビーチに面したホテルに勤務するレアトリスも、ヨットのキャプテンであるイアンも、レストランで働くデイビッドも、親しみと品位のあるおもてなしをしようと努めている。

 イアンのヨットには、主に日本人と米本土からの観光客が乗船する。日本人観光客は午前中に乗るのを好み、アメリカ人は夜を好むそうだ。「たぶん日本人は夜は寝て、アメリカ人は夜お酒を飲んでいるから朝は寝ているんだろう」と、イアンは言う。

 そうかもしれない。それに加えて私が想像するに、日本人観光客は夜、ショッピングをしているのだろうと思う。楽しみ方は違っていても、安全なハワイであり続けて欲しいと誰もが望んでいる。

 ホノルル空港では、01年9月11日の同時テロ事件以来、警備が非常に厳しくなっている。事件後、爆弾など武器の持ち込みがないかを検査する大きな機械を100万ドルで購入したそうだが、更に最近、1台3万ドルの機械を100台近く買ったそうだ。

 ジェレミーはホノルル空港で、1日中その機械を睨んでいる。「きょうは荷物から麻薬を見つけた」と言った。そして、緊張の仕事が終わるとビーチへ行く。陽に焼けたチョコレート色の肌は日ごとに深くなっていく。

 彼はあらゆる海の楽しみ方を知っている。ボディーボードのコンテストではチャンピオンになった。釣りもする。海と友達なのだ。ハワイの海男なのだ。といっても海の荒くれ男ではない。非常に心優しく穏やかで几帳面な性格をしている。約束も守る。

 海の好きな地元の人たちは、仕事のない時は長いサーフボードなど、マリンスポーツの備品をトラックの荷台に積み込み、あちらのビーチこちらのビーチにと遊びに行く。

 彼らは、その日その時のお天気や、波の具合に誘われて出かけるものだから、人との約束を忘れることがある。12時。来るはずの人が来ない。電話が鳴る。

 「もしもし、ミチコ、ごめんなさい。12時の約束を忘れていました。今、ノースショアでサーフィンをしているんです」と、申し訳なさそう。

 「仕方がないわね。でも、少なくとも約束の時間を思い出してくれてありがとう」  「そうなんだ。12時きっかりにビーチで思い出したんだよ」と、少し得意そう。

 ハワイの人たちは人との約束を軽んじているわけではない。むしろ大切に考えている。約束を破ると信用を失うし、根が横着ではないから非常に反省する。同時に、太陽や雲の動き、潮の干満や魚との対話も重んじている。2つの時計を持っているようだ。

 厳しい人間社会の中で真剣に働く彼らは、自然が生み出す鼓動も無視をしていない。それは、「音楽のテンポを刻むメトロノームが絶対だ」とか、「ピッチの『A』は、440ヘルツか442ヘルツか」、などとは言っていられないような独特なものだ。

 まさに生きた音楽がそうであるように、ハワイの夏は美しく魅力的に生きている。

 日陰でスイカを食べている私にさえも、有り余る自然のすばらしさで潤ってくる。

(毎日新聞USA連載)


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