Violin弾きのお美っちゃん~25

Posted by: MichikoNakamura Fri, 17 Jan 2003 19:28:00 GMT

父と娘と……



 私の住むアパートはハワイ式というか、自然の風が通り易い窓の作りになっている。簡単に言えば右から左に風が吹き抜ける。外の世界と一体のようなものだから、こんな住居では「孤独死」などはしないだろう。

 住人たちは隣人の生活をさりげなく観察している。ざっくばらんのように見えても、人間としての品位というものを心のどこかで重んじている。40年の伝統ある長屋だ。

 昨年のクリスマスの晩、2階に住む親子が大喧嘩をした。親子喧嘩はいつものことだが、今回は深刻だ。父親は成人している娘2人と犬を追い出した。彼女達はその夜どこからか、ひとつ車輪の取れかかったポンコツ車を駐車場に押してきて犬と住み始めた。

 父親は心臓を患っている。時々、表に出てきては「僕は心臓の手術をしているから新鮮な空気が必要なんだ」と、手術の跡を見せて弱々しく笑う。本当のところは娘との絶え間ない喧嘩のせいで、外の空気を必要としているのだろうと思う。

 駐車場は「コ」の字型の建物に囲まれているので、この一家の騒動は全住人の注目を浴びることになった。彼女らは車の座席を倒して寝泊りをし、犬も後部座席で不安気な顔をして暮らした。まぎれもなくホームレスになったのだ。

 ハワイにもホームレスはたくさんいるが、ホノルル中心部の観光街ではほとんど見かけない。ハワイは年中暖かいので、米大陸のソーシャルワーカーや慈善団体がホームレスの人に飛行機の片道切符を与えてハワイに送り込んでいる、という噂をずいぶん前に聞いたことがある。が、事実は知らない。

 1年前。こんな出来事に遭遇した。

 その日、私はスーパーマーケットで買い物をして駐車場を通り抜けた。駐車場の傍には緑の葉を豊かに広げた大木があり、その木にもたれ、一人のホームレスが座り込んでいるのが目に入った。が、私は知らん顔をして足早に通り過ぎようとしていた。

 木の前には郵便ポストがあった。その時、見知らぬ女の人が手紙を「ぽとん」と、ポストに落としたところだった。かと思うとすぐさまバッグから紙幣を取り出して握りしめた。それから、木の下でうずくまっているホームレスの人に駆け寄った。

 その女の人の行動は素早く、声はとても自然で柔らかだったのに、交通量の多いその道での彼女のことばは鮮やかに響いた。「これで何か好きな物を買って食べなさい!」と言うのが。

 ぼろをまとったホームレスの人は、地面にべったりと座ってうなだれたままお金を受け取った。それはほんの一瞬の出来事だったので私は振り返らなかった。

 ちょうど1年前に見かけたそのホームレスの身なりは、「本当の冬の国」からハワイに到着したばかり人のように見えた。やはりあの噂は本当なのだろうか……。

 新春のホノルルは、快晴が続いている。そして、朝晩は肌寒い。ハワイのホームレスは凍え死ぬことはないだろうが、テレビでは「本当の冬の国」の人々が「本当の厳しい寒さ」によって弱っていく姿が映し出される。

 余談だが、夫がオアフ島の刑務所に勤務している友人のクリスティーナは言う。刑務所は空調設備が整っており、囚人はコンピューターを使って教育を受け、学習をし、さまざまな慰問も受ける。「私たち普通の人よりも、ずっと恵まれた生活をしていると思わない?、ミチコ」

 そうなのか。いつか慰問に行って内部の様子を見て来なければ、と思っている。

 米本土から護送されてくる囚人たちは、一般の乗客と同じ飛行機に乗ってくる。囚人がホノルルに到着する日は、クリスティーナの夫も飛行場に何時間も立って警備にあたる。任務を終えた直後に会った時は、日焼けした顔が真っ赤になっていた。

 囚人の中には、米本土の刑務所に送られたり、またハワイに戻されたりと、何度も行き来する者もいるらしい。すると、刑務所に勤務するオフィサーと顔見知りになる囚人もいて、飛行機から降り立つと「ハロー、オフィサー……」と、嬉しそうに挨拶をする者もあるそうだ。

 厳重な監視の目に、手かせ。歓迎のレイの花を首にかけてはもらえないが、囚人にとっても「常夏の国・楽園の島・ハワイ!」と、内心は密かな喜びがあるのかも知れない。

 さて、アパートの住人の駐車場でのホームレス生活は凍えて行き倒れすることもなく、車の中での寝泊りは、2週間にも及んだ。が、無事終止符を打った。  

 彼女たちはついに車輪の修理に成功し、犬を道連れにして逃亡したのである。

(毎日新聞USA連載)


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Violin弾きのお美っちゃん~24

Posted by: MichikoNakamura Thu, 02 Jan 2003 18:41:16 GMT

晴れて元旦だが……


2003年元旦。アメリカで迎える16回目の正月。そのうち15回がホノルルだ。



 一度だけ、雪のシカゴで元日を過ごした。アーカンソー、オクラホマ、カンザス、ミズーリを回って最後にシカゴに寄った。そこで元旦を迎えたのだが、刺すような冷たい風に当たりながら、ビルの谷間を歩いたのを記憶している。

 いずれにしろ日本を離れてまる15年の光陰の速さに、今、改めて驚いている。

 「元旦だから改まった、新たな気持ちで始まる」という緊張感ではないが、ずうーっと継続的に緊張した15年間が続いているように感じる。それは耐え難い緊張感ではないのだが……。

 見えない時間の中で止まっているように見えて、実は熟成し成長している何かが見えるとでも言えばいいのだろうか。15歳分の「年」をとったわけだが「あーあ、歳はとりたくないなあ」と感じたことがない。不思議なことに私の心は老け込まない。

 ハワイには人を若返らせる何かがあるようだ。それは気候や自然の動植物から受けるものだけでなく、15年間で出会ってきた人々との関係によるところが大きい。知り合いは一人もいなかったハワイ。そして、人に恵まれた15年間の歳月に感謝をして、また新年をホノルルで迎えた。

 大晦日の夜はあちこちから爆竹の音が鳴り始め、それとともに人々の絶叫も聞こえてくる。花火も上がる。花火の燃えかすが屋根に落ちて家が燃え上がり、消防自動車が走る。花火で火傷を負った患者さんを乗せて救急車も急ぎ、お医者さんは病院に呼び出される。

 被害はペットにも及ぶ。気の弱いペットを持つ飼い主は、事前に獣医さんから精神安定剤を与えてもらう。「バチバチバチバチッ」という連続音と胸の悪くなるような煙は島中を包んでいく。花火と爆竹の嵐は12時に最高潮になり、空から響いてくる。

 爆竹の余韻は午前1時頃やっとおさまり、私は新年を迎えた喜びもなくようやく眠りにつく。元旦の朝、爆竹のゴミの山は清掃され「世界の観光地ホノルル」は、きれいな装いを取り戻す。やがてニュースでは「花火で死亡者が出た。負傷者が何人出た。爆竹の音でペットが恐怖のあまり逃げ出した。その数は何匹」などと報道される。毎年そうだ。

 数年前の大晦日の晩のことだった。親しくしていたユーエンさん一家に、自宅での花火大会と夕食に招待された。私と夫と愛犬ドルチェは、ホノルルの中心部から西に車で40分くらいの所にあるカポレイに出かけて行った。オアフ島の空には花火と爆竹の煙が広がり始めていた。

 ユーエンさんの家に着くと、住宅地全域が煙と火薬の匂いで充満していた。私はそこで逃げ帰ろうかと思ったが、せっかくのご馳走も待っているからと思い直した。家の前には打ち上げ花火台が道路の中央に建てられ、ガレージには花火の箱が何箱も置かれていた。それだけで何百ドルだということだった。

 歓迎されて家の中に入ると中国料理がずらりとテーブルに並んでいた。そして「大イベント」は始まった。それは家庭での花火遊びという生ぬるいものではなく、大仕掛け花火だった。私はひたすらドルチェの耳を押さえ、ご馳走を食べ、たまに誘われてほんの少しだけ表に出ては「きれいね!」と賛辞を述べ、すぐにまた家の中に飛び込んだ。

 花火は2時間たっても3時間たっても終わりそうになかった。家の中に逃げ込んでも私の体は煙にいぶされて薫製になりそうだった。私たちは「そろそろドルチェが寝る時間だから」と温かい一家に感謝をして引き上げていった。帰り道は視界がさえぎられるほどの煙だった。オアフ島の上空は紫だった。

 それは大変貴重な経験だったが、なぜか次の年からは2度と誘われなかった。やはり「きれいね!」というあの賛辞には無理な響きがあったのかもしれない。仕方がない。

 今年も「旧年と新年への挨拶の叫び」は空を通して街中に響いた。2003年を迎えた深夜のオアフ島は風がなく「煙の街」と化し、私はいつもと変わらない朝が来るのをじっと待った。

 元旦にはお雑煮を作る。ハワイで生まれ育った日系の知人も「元旦はおばあちゃんの家にゾーニを食べに行く」と言う。「おせち料理」を知らない人でも「ゾーニ」はお正月のお祝いとして多くの家庭で習慣になっているようだ。

 そんなお祝いの集まりでも、ハワイの人は普段着に「ゾーリ」をはいて気楽に出かけるのである。そのゾーリはハワイのゾーリで、日本の着物を着る時の「草履」ではない。今や、私のお正月も「素足にゾーリ」になった。しかし、せめてお正月には奇麗に和服を着て、草履を履きたい!。

 2003年元旦。ホノルルの煙は一掃され、雲ひとつない真っ青な空が戻っていた。そして私は、心も装いも改まらないままに、新たな年に突入した……。

(毎日新聞USA連載)


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Violin弾きのお美っちゃん~23

Posted by: MichikoNakamura Mon, 30 Dec 2002 02:33:29 GMT

垢を落とせば……


 ホノルルのダウンタウンに、主にビジネスの人を対象に発行している新聞社がある。女性経営者のスージーは、ダウンタウンの中でしばしば事務所を移転している。従業員もめまぐるしく変わる。厳しいボスらしい。

 私たちの事務所も11月に移転したので、スージーに電話をした。

 「スージー、今のオフィスはどこなの?」と挨拶替わりに尋ねると、彼女はその意味を理解しているといったふうに笑いながら住所を言った。

 ダウンタウンの中で、もっと居心地の良い場所が見つかったらまた移動するだろうと、私はいいかげんに聞いていた。が、「今のオフィスは人の行き来がよく見えておもしろいのよ」と嬉しそうな声でスージーは言った。するとしばらくはそこにいるかもしれない。

 「私たちの事務所も引っ越ししたのよ。遊びに来ない?」と誘った。

 「ありがとう。でも月曜から金曜までは仕事が詰まってるのよ。週末はマウイ島に帰ってるしね」

 「マウイに?それは知らなかった。家族がマウイ島にいるの?」

 「ううん私一人よ。家がマウイ島にあるから週末には飛行機で帰ってるのよ。

 毎日の仕事はストレスでいっぱいだから、ホノルルを離れてゆったりとくつぎたいからね!」

 「うん、わかるわかる。それはいいことね!」

 「マウイ島には画家や彫刻家がたくさん住んでいるのよ。

 芸術家が好む島なの。ミチコもいつかおいで。気に入るわよ!」

 「そう?いつかいっしょについて行ってもいい?」

 「うん、いいよ」…………

 いつかマウイ島のスージーの家について行くということに話は決まり、電話を切った。

 ホノルルの人々は忙しい。オアフ島の反対側に住んでホノルル市内に通勤する人も、毎日「えっちらほいさ」と運転しなければならないので疲れている。夕刻の渋滞した道路にイライラしても、郊外の家にたどり着くとまた気分が変わるのだろう。

 年末年始は楽しい時期ではあるが、みんな疲れている。会社勤めの人も、経営者も、お医者さんも、新聞記者も、主婦も、みんな疲れている。

 クリスマスからパーティー続きでおつきあいに忙しくて「休暇の行事で疲れたから、休暇の休暇が欲しい」と年の始めに言う人もいるが、スージーのような経営者は、即、何らかの処置を取るだろう。「楽しい!怖い!」が同時にやってくるようなものだ。

 近ごろの日本は、暮れの大掃除や、年始の書きぞめはしないのだろうか。家の中は普段からそれなりにきれいにしているので、そんなことよりもお付き合いの方が忙しいのかもしれない。

 私たちは事務所の引っ越しで10月下旬と11月初旬は大掃除だった。移転先は2筋ほど先で、同じ町内のようなものだった。「事務所風」から「長屋風」にパターンを変えるつもりだったので、金属性の事務机やファイルキャビネット類など多くの備品は、引っ越しを手伝ってくれた友人たちの組織に寄付をして喜ばれた。

 それでも、古い箱や、キャビネットや、机の引きだしに詰め込んでいた古い資料や捨て惜しんでいたものを、保存と処分の仕分けをするのに時間を費やした。垢というものは、たまに洗い流さなければならないものだとつくづく思った。

 あちらの引きだし、こちらの棚からは、色画用紙や種類の違う新しい紙類がたくさん出てきた。そんなものを一カ所にまとめてみると、使えるものが使われないままに眠っていることも実感した。

 12月初めに、事務所移転のお知らせを兼ねて、少しばかり早めのクリスマスカードを作った。色とりどりの画用紙を選んで半分に切り、それをまた半分に折った。硯で墨をすり、筆で書いた。

 ほんのりと立つ墨の薫りに心が落ちついた。アメリカにはない匂いだった。私は筆と遊んだ。書いていると、書き切れないたくさんの人たちの顔が次々に浮かんできた。そして、書けなかった人たちには「またね」と心の中でお詫びを言ってから筆を置いた。

 部屋に残る微かな墨の薫りは、年の暮れの喧騒から一転した元旦の静けさのようだった。ゆるやかに流れる川の面のようでもあった。が、ふと気がつくと、表のカラカウア通りを行き来する自動車音が、妙に快活に鳴り響いてきた。

 長屋風の新天地には「喧騒と静寂の世界」が同時に存在している。それも悪くない。

(毎日新聞USA連載)


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Violin弾きのお美っちゃん~22

Posted by: MichikoNakamura Mon, 16 Dec 2002 02:30:57 GMT

積み重ねるもの……



 日の暮れが早くなり「冬」の風が吹く。ハワイの木々は相も変わらず健康的な緑のままなので「枯れ葉よ~~~」と、せつない恋心を歌うことはできないが……。

 季節はすっかり冬なのに、夜が明けるとまっすぐ射す太陽の光は眩しく、見上げる空は素直に青い。夏の間中、ダイヤモンドヘッドの背中は茶色に乾いていたが、今は時折降る雨を吸い込み、つややかな緑の衣に覆われている。

 11月の感謝祭の頃から、スーパーマーケットの駐車場や広場には大きなテントが張られ、クリスマスのもみの木が売り出される。そして12月になると、ホノルルの町はますます慌ただしくなってゆく。

 ホノルル中心部のショッピングセンターは、クリスマスの買い物をする人々で混み合い、郵便局には長い列ができる。街の騒がしさは、大晦日の「耐え難い爆竹の騒音と煙」に包まれるまで続く。私はそんな喧騒からすり抜けたいと思う。

 毎年、感謝祭とクリスマスイブには、友人のハリー石田さんの家に招待される。毎年欠かすことなく招かれているので、今年で何年目になるのか覚えていない。もう10年か、あるいはそれ以上になるだろうか。

 ハリーさんはハワイ生まれの日系二世で、ソフトな日本語を話す。大学教育までをアメリカで受けているが、新潟と岡山から移民した両親には「日本の心」を受け継いだ。茶道や日本舞踊などを通して、今もなお、日本の精神を熱心に深めている。

 歯科医になってもう50年くらいになるというので、70歳はとうに過ぎているようだが、正確な年齢は知らない。友人だから気にしたことはない。一生懸命仕事をし続け、そして、人生を大いに楽しんでいる。

 ハリーさんの家は、ワイキキから車でカハラ方面に15分くらい行ったところ、ワイアラエの山の上にある。ワイアラエの山には、自然な地形の起伏に沿って住宅が点在しており、道が家々の間を縫うように、右に左に斜めにと枝分かれしている。

 その枝分かれした道を通ってハリーさんの家に行くと、行く度に迷ってたどり着く。麓のワイアラエ通りから山頂まではもう1本?まっすぐな急な坂道がある。その道を登る時、車のエンジンは息切れしたように聞こえる。後部座席に座っている私と愛犬ドルチェも緊張して息切れがする。身体に悪い。

 ホノルルの街灯はオレンジ色に統一されていて、夜間になるとワイアラエの山は、ほのかな温もりに包まれる。恐怖の一直線コースもオレンジの点線で山頂まで標される。逆に、山頂から見下ろすワイキキ方面の夜景は、色とりどりの、きままな輝きを見せている。

 以前、ハリーさんの家のパティオからはホノルルの町全体が一望できて、そこで彼は友人とお酒を飲んだり、タンゴやジルバを踊ったりと最高の場所だったらしい。が、すぐ下の家が2階を建て増ししてからは、せっかくの絶景が半分さえぎられてしまったと非常に残念がっている。

 広いリビングルームでは、めいめい好きな場所で食事をしている。私たち数人はそこから離れ、冷たく澄んだ夜風の吹くパティオのテーブルにつく。そこで私は日本各地の銘酒を楽しむ。夫はソーダとお茶ばかり飲む。

 お酒の銘柄はハワイでは手に入らないようなものばかりなので、それはハリーさんが日本に旅行した時に持ち帰ったお酒かもしれないし、友人知人が多いから、おみやげなのかもしれない。

 そのような貴重な日本酒を、氷の入ったグラスに注ぎ、静かに飲む。

 「寒いね!」と、夜風に吹かれながら、ハワイの冬を味わう。  温かいもてなしと、おいしい料理をたくさんいただいての帰り際、ハリーさんは「いつも同じものだけど、またいらっしゃい!」と言う。

 そして、私たちはいくつものカーブの道を、今度は迷わずにゆっくりと下って行く。

 新しい年を迎え、忙しい日々を過ごしていると、春が過ぎ、いつの間にか夏が来て秋になり、再び冬の風が吹くようになる。また、感謝祭とクリスマスがやってくる。するとまたハリーさんから「同じものだけど、いらっしゃい!」という電話がかかってくる。

 こうして、ハリーさんの暖かな眼差しと温かい心が、年々歳々、私の心の中に積み重なってゆく。「宝物」とはこういうものなのだろう、と思う。

(毎日新聞USA連載)


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Violin弾きのお美っちゃん~21

Posted by: MichikoNakamura Sat, 30 Nov 2002 02:28:41 GMT

こっちの水は甘いか?……



 ハワイは11月から3月ごろまで雨期になる。

 といっても、日本の梅雨のようにしとしとジメジメ降り続く雨ではない。オアフ島ではワイキキが最も雨量が少ない。ワイキキ方面は青空が広がっていても、車で北に15分くらいのところにあるマノア方面の山には雨足が見えることがある。マノアは雨が多い。

 何月だったか忘れたが、マノアの友人の家でパーティーをした時のことだ。ジャングルのように南国の木々が生い茂った庭で、私たちは食事をしておしゃべりをしていた。夕方になり、そこに雨がザーッときた。

 すると湿った空気に乗って、どこからともなく羽蟻の大群が私たちのパーティーに参加した。羽蟻は私たちを刺しはしなかったが恐ろしかった。水や緑の恵みを受けるならば虫との共存も受け入れなければならないことを知った。

 とにかくこんな小さな島なのに行く先々で、いろいろな表情を見せてくれるこの島が私は好きだ。時折、通り雨が乾いた島を潤してくれる。これは有難い自然の恩恵なのだ。

 ハワイの様々な自然の恵みは、観光客にとっては当り前のことかもしれない。何十年もかけてハワイの人々によって整備され準備されてきたことは、ほんの数日間ホテルに滞在する観光客は知らなくてもいいことなのかもしれない。

 15年間ハワイに住んでいる私さえも、ハワイの水はどこからかわからないけれど、無限に湧いてくるものだと思っていた。とにかくハワイの水は枯れることはないだろうと。

 ……その日、私はハワイ島コナにある古ぼけた劇場の楽屋で、演奏用のドレスに着替えながらスーザンとおしゃべりをしていた。スーザンはハワイ島の火山国立公園に勤めている。ヴィオラ弾きでもある。

 私は着替えをすませると、滞在先のサリーが作ってくれたサンドイッチを食べはじめた。ペットボトルの水を飲んでから「スーザン、ホノルルとコナの水道水では味が違うのね」と言った。コナで滞在した家で飲んだ水と、私の住んでいるホノルルの水とでは、味が違っていたからだ。

 スーザンも出演の準備をしていたが「火山国立公園の職員」の顔を覗かせて答えた。「ハワイ諸島は火山でできているでしょう。雨が降るとね、溶岩がフィルターの役目をして、ろ過されるの。だからハワイの水はいい水なのよ」。

 「なるほど、わかりやすい!」。私は嬉しくなった。

 「溶岩には小さいブツブツの穴がたくさんあいてるでしょう?あれがスポンジのようなもので、雨水がそこを通り抜けると自然にきれいな水になるのよ」。

 「そうなの!」と、改めてハワイの水に自信を持つことが出来て、更に興奮した。

 「水は塩水よりも比重が軽いから、海水の上に溜まった水はドームのようになってるの。そしてドリルで岩盤に穴をあけて、ストローみたいにパイプで水を吸い上げてるのよ」。

 私はサンドイッチを食べながら呑気に話を聞いていた。が、なぜかスーザンは深刻な顔つきで話を続けていった。

 「でもね、オアフ島には100万人近い人が住んでいるでしょう。水不足の問題はだんだん深刻になってきているのよ。だからオアフ島では、海の塩気が混じった水の層を使う必要が出てくるかもしれないの」。

 「ええっ、そうなの? それでハワイ島の水は?」。

 「ハワイ島は人口が少ないから水をそんなに使わないでしょう。だからいい水がまだ充分にあるの。それに標高の高い所に住んでいる人たちは、雨水を直接屋根から大きなタンクに溜めてるのよ」。

 私は状況が飲み込めてだんだんに深刻になっていった。サンドイッチは食べ終わった。「残ったペットボトルの水は捨てないでホノルルまで大切に持ち帰ろう」と、そっとバッグに入れた。

 「今ね、ハワイ島の余った水を人口の多いオアフ島に送ろうか、というプロジェクトが持ち上がっているのよ。でも、まだアイデアの段階だけどね」とスーザンは教えてくれた。

 「どうやって運ぶの?」  「ミチコ、それが問題ね!容器に入れて飛行機で運ぶ? 島と島の間をパイプで繋いで?。それとも海底を通して?……」。

 本番前に思わぬ問題に直面した私は「どんな方法がいいかしら」と考え始めた。が、まもなく出演の時間になったので私たちはそれぞれの楽器を手に、ぎしぎしきしむ狭い舞台裏を通ってステージに向かった。

 ……演奏会が終わると、コナの飛行場までキャシーが車を飛ばしてくれた。更に、親切にも「ミチコ、喉が乾いたでしょう? これあなたの水よ」と、大きなペットボトルの水を差し出してくれた。

 私は「飲み残しの水が1本あるから……」とは言わずに「どうもありがとう!」と有難く受け取ってバッグに詰め込んだ。バッグは2本のペットボトルで不格好に膨らみ、片手には重いヴァイオリンケースを手に、オアフ島への飛行機に乗り込んでいった。この時ばかりは荷物の重さが苦にならなかった。

 40分の飛行中、飛行機の窓から海面をじっと見つめながら「ハワイ島からどうやってオアフ島に水を運べばいいかしら……」と考え続けたのだった。

(毎日新聞USA連載)


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Violin弾きのお美っちゃん~20

Posted by: MichikoNakamura Fri, 15 Nov 2002 23:32:11 GMT

器の中に……


 1989年にオアフ島ホノルルで夫と会社を設立した。ほぼ同時期にハワイ島コナでは音楽家ケン・ステイトンさんを中心に演奏団体を設立していた。メンバーは主にコーラスの人達だった。

 90年代の半ばごろから「ヴァイオリンを弾きに来ない?」という誘いの電話がかかるようになった。器楽演奏家はハワイ島には数少ないので、オーケストラ奏者の多くはオアフ島から呼ばれて行くのだった。

 私は誘いの電話がかかっても、ほかの島までヴァイオリンを持って泊りがけで行くのはおっくうな気がした。行きたくない理由はもう一つあった。シーズーの小犬をわが家に迎えたばかりだったので離れたくなかったのだ。「小犬がいるから……」と断わっていた。

 電話は毎年かかり、3年目に「じゃあ、一度だけ」と誘いを受けた。ところが一度行ってみると、コナの人々の音楽への情熱が私の心にまっすぐに入ってきた。以来、コナに通い続けている。

 今年も10月最後の週末3日間、コナへ行った。リハーサル2回と演奏会2回があった。

 山の上にある演奏会場と滞在した家の間を、コナのメンバーの人達が何度も送り迎えしてくれた。曲がりくねった細い道はどこもきれいに舗装されている。ガードレールのない道を、車はスピードを出してくねくねと走っていった。

 「何もない」「もし、そこに人がいなければ何もない」と思った。

 何もないわけではない。確かにそこには豊かな緑の木々があり、花々があり、小鳥がさえずっている。自然への感謝を思い起こさせてくれる。遠く眼下には静かな海が広がり、海岸沿いには観光客で賑わうひと塊の町が見える。

 何か一つのこと、例えば音楽のために、70年前に建てられた劇場に人々が集う。

 もしそこに人々の「思い」がなければ、古ぼけた劇場とカフェや小さなギャラリーがくねくねと曲がったところに現われ、数十秒後には過ぎ去った後ろの景色になっているだけのことかもしれない。さして特別な感慨もないままに。

 だが、何もないのではないのだ!。彼らはネットワークを張っている。目的のため、必要な時に必要な人が集まりネットワークは広がっている。心の内側から「豊かさ」を作っているのだ。

 「音響のよい心地よい楽屋のあるコンサートホールがあれば……」と夢見ることだろう。そんな計画があることは2年前に聞いた。ある夫婦は、コンサートホール建設用の広大な土地を寄付し、ある人はお金を寄付している。知り合いの若いスティーブは、おばあさんから受け継いだ遺産を寄付した。

 こうして用意された土地に、いつ立派なコンサートホールが建つのか私は知らない。まだ建ってはいないのだが、そこにはすでにはっきりと「姿」が出来ている。ホールは建てればよいというものではない。そこにどんな人々が集い、どんな志で、どんなことをするかが大切なのだ。

 ……カメハメハ王朝直系最後の王女パウアヒが、120年近く前にお墓という建物に入るまでの人生は、大きな志に満ちたものだったという。それはパウアヒの生まれもった資質とともに、ニューヨークから来たチャールズ・ビショップとの結婚生活の象徴でもあったようだ。

 王族であり、またキリスト教徒でもあったパウアヒは、ハワイアン子弟の教育に自らの能力を注いだ。読み書きやピアノを教え演奏会をした。受け継がれた莫大な遺産を自分だけの甘美な生活のために使う人生ではなかった。彼女は魅力的で人々に愛された。

 パウアヒの両親がかつて娘の結婚相手にと望んだカメハメハ5世は生涯独身を通し、死を目前の床にパウアヒを呼び「後継者に」と懇願したのだった。しかし、パウアヒは「いいえ、いいえ私じゃないわ!」と答えた。そう、言い伝えられている。

 10月16日にパウアヒは死んだ。別れを告げに訪れる人々の列は絶えなかった。ホノルルの空は重たい雲に覆われ悲しみの雨が降り続いていた。が、葬儀最後の日、10月30日に突然、空が天高く青く澄み渡り太陽が輝いた。晴れやかな希望とともにパウアヒは愛する人々に無言の別れを告げて逝ったのかもしれない。

 パウアヒの莫大な遺産で、夫チャールズは財団を設立した。今、ハワイアン子弟の教育に生かされている。さまざまな人々との間にネットワークを張り愛され続けたパウアヒもまた熱い血を持っていた。それは夫チャールズとの偉業でもあった。

 私が会ったことのない人々からも「志」は熱く伝わってくる。そんな人々の志に引き寄せられるように、のろのろと這うように、私もまた燃え続けているのに気がつく。

 そう、器ではない、志だ、と、10月31日、私たち夫婦も晴れやかな思いで、13年間いた事務所を移転した。

(毎日新聞USA連載)


 

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Violin弾きのお美っちゃん~19

Posted by: MichikoNakamura Fri, 01 Nov 2002 23:29:17 GMT

時の心を縫う……



 秋・冬の季節にハワイ島(ビッグアイランド)コナの演奏会に出かけると、いつも山の上にある家に泊まる。コナは欧州から移住した人々が多く住んでいる。私が住んでいるホノルルとは雰囲気が違うので、演奏を頼まれると喜んで出かけている。

 山の上は、朝晩涼しいので、夜寝る時に「寒かったらこれも掛けてね」と何色もの毛糸で編まれた手編みの毛布をベッドの端に置いてくれる。

 「うわぁ、きれいね!」と言うと、彼女たちは必らず「おばあちゃんが編んだのよ」とか「母が編んだのよ」と嬉しそうに言う。

 「ハワイは年中夏だから、そんなもの着なくても寒くないんじゃないの」と思われるかもしれないが、11月頃から早朝少しずつ冷え込むようになる。10月中旬になると私は、深夜から早朝にかけての気温の変化に注意をするようになる。

 夜寝る時、首に巻くための大きなバスタオルと体に掛けるキルトを体の回りに散らばめておく。愛犬ドルチェも横で寝ている。私も犬のような気分だ。

 早朝。それは夜明け前の太陽が「エネルギーを溜めている時」、と、私は眠りの中で思う。「地球が冷えている、寒い!」。そこで私は手でキルトを探りさっと体にかける。ドルチェも素速く身を寄せてくる。太陽が高く登るとハワイはまた夏になっている。

 私のキルトはお店で買った単純な作りのものだが、ハワイの友人の家を訪ねると温かみのある手作りの本物のハワイアン・キルトがベッドに掛けられていたりする。手作りのハワイアン・キルトはそれ自体ベッドカバーではない。特別の集まりの時などにお客様に見せるためにベッドに飾っているのだ。

 何千針、何万針……「チク、チク、チク、チク」と家事の間に間に、また仕事の合間に、心を込めて縫い上げたキルトには愛情が込められている。だからベッドに掛けられているハワイアン・キルトには、どんと腰を降ろしてはいけない。尊敬をもって眺めなくてはならない。

 家庭に食べ物をもたらすようにという想いを込めて、昔のハワイの女性たちはハワイ語で「ウル」というブレッドフルーツや「タロ」をキルティングのデザインに使った。それらは昔、ハワイアンにとって主食だったから。他に、ハイビスカスやパイナップルなど、ハワイの花や果物のデザインも多く見られる。

 ハワイのコアという木の枠に入って壁に飾られたハワイアン・キルトを見ると、いつか作ってみたいと思う。が、私はあまり手芸が得意ではない。嫌いではないのだが、どういう訳か私が何かを編んだり縫ったりすると、糸がもつれたり、縫い目があっち向いたりこっち向いたりしてしまうのだ。そうなると辛抱がない。

 しかし、親しくしているウィノナさんがハワイアン・キルトをするのを見ているうちに「これは私に向いているかもしれない。できるかもしれない」と思えるようになってきた。ハワイアン・キルトは「セラピー」だから。キルティングは「瞑想」だから。と、彼女は言う。

 ウィノナさんとは6年くらい前に出会った。ハワイに生まれ育ち、この10月に70才になった。私は、彼女がひと針づつ、ゆっくりと針を進めていく姿を、ただただじっと眺めている。静かに縫い進める彼女の丸い横顔は「焦らなくていいのよ。でも一歩、一歩、忍耐を持ってね」と語りかけているようだ。

 ウィノナさんには6人の孫と8人のひ孫がいる。今、縫っているハワイアン・キルトは子ども用の掛け布団くらいの大きさなので、誰かへのプレゼントのつもりらしい。何カ月も何年も、暇を見つけては、自然に呼吸をするように、ひと刺し、ひと針と縫う。

 「縫う時には形を目で見て、指ではかって、自然な波や膨らみが出るといいのよ」。

 ウィノナさんは「いつ仕上げなければならない」とか「いつまでに仕上げよう」などとは一向に考えていない。「仕上がったときに、仕上がる」のだ。

 「女はね、いろいろなことで忙しいし、心配ごともあるから、ゆったりした気分でハッピーな気持ちですることが大切なのよ」と言いながら、いつ始め、いつ仕上がるかわからないハワイアン・キルトを縫っている。その「時」を楽しみながら。

 「ハワイアン・キルトは忍耐がいるの」

 「いいこと、いい場面を考えながらすることが大切よ」

 「愛を持ってすることが大切なの」

 「楽しく、静かで、幸せな気持ちですることが大切なのよ」

 「ミチコ、音楽もセラピーでしょう。心を癒すものでしょう。ハワイアン・キルトもセラピーなのよ」と、彼女は縫う手を少しだけ休め、キルトを撫でながら言った。

 私はまだハワイアン・キルトを始めてもいないのに、ウィノナさんの話す声に心地よい安らぎを感じていた。

(毎日新聞USA連載)


 

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Violin弾きのお美っちゃん~18

Posted by: MichikoNakamura Sat, 19 Oct 2002 20:23:54 GMT

横綱の大きな母は……



 左手でお箸を持って食事をしていると「あっ、左利きですか」と言われる。

 ヴァイオリン弾きだと言うと「3歳くらいから始めたんですか」と聞かれる。

 病院で胸のレントゲン写真を撮ると、医師は不思議そうな顔をする。

 ……私はそんな問いかけには頷かない。

 いろいろな場面での小さなやりとり。心の中で用意されていた答えとは違う返答があると、人は、ほんの少しだけ騙されたような顔つきを見せる。

 10歳のある時「もしも病気か事故で右手が使えなくなったら左手で食べよう」と思いつき、左手にお箸を持ってラーメンを食べた。その日以来、40年近くお箸は左手を使っているだけなのだ。

 初めてお箸を左手に持つのに何の苦労もなかったので、もしかして元々両利きだったのかもしれない。「誰でもない。私自身が可能性を縛りつけていたのではないか」と思ったりする。

 両手が不自由になった人が、口に筆をくわえ絵を描き作家になった。頷けることだ。今までの固定観念に縛られなければ、可能性への小道は見えてくるのだろうから。

 それまで、自分が生きてきた小さな世界の標準から見て、身体がとてつもなく大きいというのは驚きであり珍しいことではある。ハワイに来るまでは、体の大きなポリネシアンやハワイアンの人たちは、テレビや刊行物で知るだけだった。

 骨太はいかつい印象を、豊満は、もしかして、神経が鈍いという印象を与えることがあるかもしれない。実際に、その人を知らない限りは……。ところが、それがとんでもない固定観念であったことは、繊細で謙虚な人柄に触れた時に、柔らかな喜びによって簡単に打ち砕かれてしまう。

 私の友人に約10年前からおつきあいをしている、とても体の大きい女性がいる。名をジャニスという。息子のチャドが大相撲の横綱になった時、「日本で有名になってお金をたくさん持つようになっても、質素な暮らしをしていたハワイでのことを忘れてほしくないのよ」と、厳しい表情を見せて、私に言った。

 息子のチャド、つまりは曙関が横綱になる前も、なってからも、引退してからも、ジャニスの謙虚で質素な暮らしぶりや、人に対する温かい思いやりは変わらない。心から人が好きなのだ。

 ジャニスは2カ月前に、物置で用事をしていて、うっかり釘の頭で右手の甲に小さな怪我をした。病院で治療をしたが糖尿病があるので薬が効かなかった。それで傷が悪化して手術をしなければならなくなり、家の近くの病院に数日間入院していた。

 退院してからもしばらく包帯を巻いていたので、日常の雑事にも不自由をしていた。

 「私は何でも右手で用をするから、困るのよ、不便だわ」と言っていた。

 手術から1カ月後の日曜日に、私はもう一度ジャニスの家に遊びに行った。すると「やっと包帯が取れて右手が使えるようになったのよ」と嬉しそうに見せてくれた。右手の甲には手術の縫い目が痛々しく残っている。

 「今、リハビリをしているから、だんだん以前のように動かせるようになってきたの。ハンドセラピストはハワイ州に2人しかいないから、患者さんが何人も予約待ちしてるのよ。だから予約は絶対にキャンセルできないの」とジャニスは言った。

 ……以前、「脳梗塞で右手が動かなくなった」と言う人に会った時に「右手はリハビリすればいいし、左手だって使えるのよ」と私は言ってあげたかった。が、言わなかった。もしそんなことを言えばお節介だと思われるだろうし、私はリハビリの専門家ではないので遠慮した。「リハビリをして右手が使えるようになったかしら」と、その人のことを思い出した……。

 「まだ少し右手が痺れているの。フラダンスを踊る時に、微妙ななめらかな動きがまだ出来ないの」。そう言いながらジャニスはソファに深く腰掛けたままで、両手のそれぞれの5本の指を波だたせるようにしなやかに宙に踊らせて、微笑んだ。

 彼女は今、自分のお店と趣味、孫や姪の子どもの世話に、忙しい毎日を過ごしている。気取らない家の中は、横綱だった息子や家族の写真がたくさん飾られている。

 「横綱の母っていうことは時とともに忘れられてゆくから、私は、私の仕事や楽しみをしっかりとやって生きていたいのよ。私は人に会うのがとっても好きだからね」と言う。

 ジャニスの人を包み込むような大らかな笑顔は、体の大きさからくるものではなく、聡明な内面から出てくるものだ。そして、その笑顔とともに耳にするさりげない会話は、接する人の心に小さな幸せを注ぎ込んでいる。と、私は感じている。

(毎日新聞USA連載)


 

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Violin弾きのお美っちゃん~17

Posted by: MichikoNakamura Sun, 06 Oct 2002 20:20:35 GMT

ハワイの四季は……



 長い長い夏。淡い色の小さい花びらをいくつもつけた枝々は、穏やかな風に揺れる。

 鮮やかなハイビスカスは気ままに咲く。

 花弁を閉じた赤いハイビスカスは、うたた寝をしているかのように見える。

 ピンクのブーゲンビリアの花は、固く群れをなして咲いている。

 ハワイを訪れる人々を、首飾りになって、その香りで出迎えるプルメリアの花も長い夏を咲き続けている。だが、熱い陽に疲れた白く柔らかな花びらは、細い薄茶色の縁どりをうっすらとつけて、風に飛ばされてゆく……。

 ハワイは四季の変化がないという人がいるが、そんなことはない。

 季節は微妙に移り変わっている。夏は夏のままのようでも、ゆるやかに、隠れるかのように秋がやってくる。ハワイに住んでみて、年々、その微妙な変化をはっきりと肌で感じられるようになった。

 ハワイの人々は、のどかに暮らしていると思っている人もいるようだが、それもまた誤解である。ハワイの季節の微妙な変化が顕著に感じられるようになってくるように、ハワイに暮らす人々の「暮らしの匂い」は微妙な色彩をまとっている。

 私は京都の大学を卒業して間もない頃、3年間くらい短歌を作っていた。仕事は、ヴァイオリン指導や室内合奏団での演奏だったが、一方、静寂の中、文字で表現することもしたいと思った。

 私の短歌の先生は、コロコロと歌うように京都弁で話す60代後半の女性で、名前をはまさんといった。はまさんにはひとり娘がいたのだが、娘さんが27歳の時に風邪が長引き、咳をしているうちに口を開けたまま突然死したのだった。

 「聡明で健康だった娘が風邪で死ぬはずはない」と、納得のいかない様子ではまさんは話していた。はまさんの短歌にはいつも、その娘さんの悲しい死が詠まれていた。

 当時から短歌の会の会員は、日本全国とそれにハワイにもいた。私たち会員は月刊誌に毎月、何首か掲載していた。それを読んで、ハワイに住む会員の作者名がアメリカ名と日本名が交じっているので、何となく不思議に思ったりした。

 ハワイの人たちの短歌には、南国的なことばやハイビスカスの花が登場していた。そして表現は大げさではないけれども、明るい南国的な情緒の中に生活の匂いが微かに見え隠れしているのだった。

 明るい色彩の隙間から人々の吐息が微かに見えたのだが、いったいそれがどんなものなのか私には分からなかった。ただ、楽園の島にも「変わらない人間の暮らし」というものがあるのだと漠然と感じたのだった。それは当り前のことなのだが。

 その頃はまだ一度もハワイを訪れたことがなかったし、ハワイに移住する計画など全くなかった。ハワイというイメージは、焼けつく太陽のもと、のどかな波音のする青い浜辺とヤシの木、それにハイビスカスの花。その程度しか頭に浮かばなかった。

 まして、ハワイの人々がどんな暮らしをしていのるかなどと想像できなかったので、「ポロンポロン」とウクレレを弾きながら、気楽に暮らしている、陽に焼けたハワイの人々が、ぼんやりと頭に浮かんでくるだけだった。

 そんな私が、今、ハワイに住んで10数年になる。その間にこの美しい海で泳いだのはたった2回だけ。ほんの少しだけゴルフの真似事をしたこともあるが、私にとってのゴルフはまるで田畑を耕すのと同じくらい辛いものだった。熱い陽にクラクラした。

 日本の知人にそう話すと「何ともったいない。もっと楽しまなくっちゃ!」と言われることがある。すると私は意に反して、はずみで頷いてしまうことがある。本当は、ビーチで泳いだり、ゴルフをしたい訳ではないのに、頷いてしまった自分に苦笑する。

 ホノルルの町を歩いていて「ハワイの焼けつく太陽の下で働いてきた人なのだろうか」と思わせる女性に道ですれちがった。高齢の女性は顔と手に深いしわを刻んでいる。だが、深いしわが刻まれてはいても「もうおばあちゃんだから」、と言わせない底力が見える。

 その人に「お年寄り」ということばはふさわしくない。

 その婦人は、丁寧にお化粧をしている。

 髪の毛も美容院でセットしたばかりのようにきちんと整えられている。

 指にはピンクのマニキュアも見える。

 何より、体の背筋をピンと伸ばすようにして歩いている。

 見知らぬこの女性を見て「私の知らなかったハワイの人々の暮らしのひとつが、この婦人にもあったのだ」と、すれちがいざまの一瞬に悟った。ピンと伸びている背筋の奥で、穏やかな心の張りを感じた。

 さながら、秋を感知するハワイの花のように……。

(毎日新聞USA連載)


 

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Violin弾きのお美っちゃん~16

Posted by: MichikoNakamura Sun, 22 Sep 2002 19:32:26 GMT

オカリナの丘で……



 子どもの頃、NHK高知児童合唱団で歌っていた。毎週土曜日の夕方には、テレビ局のスタジオでのリハーサルがあり、地元のテレビやラジオで放送されていた。

 ちょうど東京オリンピック(1964年)が開催された時にカラーテレビが放送されるようになり、私たちは練習の休憩時間に、スタジオのカラーテレビで開会式を見た。画面の色が少しぶれてにじんでいたが、赤や白の鮮やかな色は何か希望の始まりのように感じられた。

 私たち児童合唱団ではいろいろな歌を歌った。そして「NHK」と印刷されたバインダーに、歌の楽譜は増えていった。

 NHKの「みんなのうた」という歌の番組も私は欠かさず見ていた。中でも「丘にのぼって~~~吹こうよオカーリナ~~~」という歌が好きだった。

 紅く染まる丘の上で、私はひとり夕陽に向かってオカリナを吹いてみたかった。しかし家の近くの高知城にある「すべり山」ではどうもイメージがピッタリとこなかった。オカリナも持っていなかった。

 「すべり山」はこんもり丸く丘になっていて草がはえていた。私たち子どもは、上から自転車でスピードを出して走り降りたり、おしりにダンボールをひいて草の上を滑ったりして遊んだ。ブランコやすべり台もあった。私はそこで夕暮れまで友だちと遊んだ。

 そして、夕陽が次第に傾くにつれて、子どもらはひとりふたりと家に帰っていくのだった。ブランコやすべり台や低い草々は街灯に照らされて、くっきりと淋しく浮かび上がっていった。

 そんな時にいつも私の心に「丘にのぼって~~~吹こうよオカーリナ~~~」という歌が聞こえてくるのだったが、「でも、すべり山はちょっとこの歌とイメージがちがうなあ」と思っていた。そして、すっかり暗くなってこの丘にひとりぼっちにならないうちにと、急いで自転車をこいで家に帰って行くのだった。

 それから何十年。「この歌にふさわしい丘にいつか出会うかもしれない」ということを、私の記憶は忘れていなかった。

 ホノルルの町が一望できる美しい「タンタラスの丘」の上にある服飾デザイナーのジェインさんの家を訪問した時、突然、「丘にのぼって~~~吹こうよオカーリナ~~~」のメロディーが心に聞こえてきたのだった。

 その日、ダイヤモンドヘッドから、パールハーバーのずうーっと向こうの方まで見えるこの家の広い庭で、お茶を飲みながら午後の時間を過ごしていた。

 ジェインさんとは、私がハワイに来てからすぐに知り合ったので、もう10年来のおつきあいになる。ジェインさんの80年余の人生からは、品格とともに、美しいものを創造し続けている内面に新鮮さを感じて、私は心ひかれている。

 ーーーーハワイ時間12月7日にパールハーバーが襲撃され、日米戦争が始まり、欧州に加えて世界中が戦争になった。ダイヤモンドヘッドの方から飛行機がどんどん飛んできた。そして戒厳令が敷かれた。

 ジェインさんたちは12月21日に結婚式を挙げる準備をしていたのだが、急遽予定を変更。真珠湾の翌日に結婚ライセンスを取りに行った。そして1週間後の12月14日に結婚式を挙げた。短い式を終えると牧師さんはソソクサと帰り、新郎新婦も帰って行った。

 戦後になって、ジェインさん夫妻が50年前に何もなかったタンタラスの丘の上に初めて家を建築することになった時は、まだ道も電気も引かれていなかったので、ホノルル市が急遽、道を作り電柱を建てたという。ーーーー

 今、ワイキキの海にはヨットが銀色に光り、細長く立ち並ぶビルの上空にはダイヤモンドヘッドの方に飛んでいく飛行機が見える。小さく見えるその飛行機は、まるで雲の上から糸で吊されているように、ゆっくりと動き、エンジン音が天空に鈍く響く。

 そんな全ての情景を視野にしながらジェインさんと語らっているうちに、世の中がどんなに激動し、どのように移りかわろうとも、美しいものを創造し続けようとしてきたジェインさんの存在そのものが、実は本当に美しいのだと私は思った。

 タンタラスの丘は次第に夕暮れに包まれた。…………「丘にのぼって~~~吹こうよオカーリナ~~~」。心の隅々に、歌詞とメロディーが広がっていった。

(毎日新聞USA連載)


 

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